2005年11月11日

平成一七年度慰霊祭

平成一七年度 
慰  霊  祭  式  次  第

一 開  催     (福祉職員)

一 慰霊のことば   (園  長)

一 黙  祷 

一 閉  祭
              (時間30分)

画像(恵老会) 225.jpg


昨日午後一時三十分から、平成一七年度の合同慰霊祭が式次第によりしめやかに講堂で行なわれた。
 先ず驚いたのは?マスコミ関係の方々が大勢来られていた。私の記憶では、多分裁判以来の出来事と記憶いたしていますが?昨年五月まで、東京(全療協本部)に二年五ヶ月いたので、その間の記憶はないが?驚いた。
何故かと申しますと、顔見知りの記者に園から記者クラブにFAX等が来ましたか?尋ねると、なんと市役所の広報課から、流れてきたと聞く!

 私はこれまで自治会長も何期かしましたが?これ程のマスコミを呼んだ記憶はない。ではいったい何故だろう?入所者の人権どころか、逆行しているのでは、とうとう市の方で和光園の慰霊祭を執り行うのか?これでは御霊は浮かばれないと思います。

 これまでの、約九十年の償いと取るべきか?素直に喜べないのが、心情である。
それに今回二社の新聞記事を記載いたしましたが?異なる典が出できましたので、補足いたします。先ずはN社の記事を読んでみると、入所者側と市の「和光園の将来構想問題」等で過日、愛知県の長寿検証センターの所長を招聘いたし、講演が行なわれた。結果は現在の国の行政改革の中で厳しいことが、説明された。
 さらに全療協本部の神美知宏事務局長は某新聞記者に「厚生労動省」は、全く和光園に長寿検証センターを、設置する事は考えていないことを、言明いたした。では今後の名瀬市の「和光園の将来構想問題」を提起するべきである。N社は?

 それに今回の慰霊祭の挨拶で、前川嘉洋園長は大胆に、園の将来構想問題について話された。内容は「医療と介護が可能な施設」が最小減必要という考えから、その設備計画に取り組み始めたと延べました。会場には、市の検討委員会の先生方はじめ、全医労組合(職員)入所者多数がいたが?園長の言葉の最低限を少し考えたい。
 意味は、それ以上低くしたり質を落としたりできない限度。「一の生活」「一これだけは守ってほしい」との意味ですが?
それでは、何処までのレベルかの検証も必要になるのでしょう。今回「和光園の将来構想検討委員会」の委員の先生方は?どの様に考えたのでしょうか?それに全医労に取っては、はっきり園の将来構想等を明言されましたが、どの様な対応するのでしょう!入所者に関しては、悲しいかなー高齢化の為に、そこまで考える方は少ないのでは?

私事ですが、園長は誰のための園長か?園長は誰のために尽力するのか?園のためになるのか、施設職員のためなのか?入所者のためなのか?園長は療養所の宿小計画を実行するためにいるのですか?それとも本省のためか?勿論本省の役人には違いないが??

 最後にこれまで国は、退所者に対しては、お金を支給する以外に医療の保障などの何の対策も立ててないままです。らい予防法が「ハンセン病罹患者」の医療を療養所の中でだけに限定したまま各園の園長は、それぞれ勝手に「退所」を認めてきた。
今後園長には、退所した人たちに対する責任もあるのではないですか?最後の入所者がいなくなっても、療養所長の責任は終わるわけではないです。

 ここでハンセン療養所の終末は最低限どころか!せめて最高レベルとは言わないが?最善のご尽力を致すこと位は、挨拶いたしていただきたいと、思うのは小生だけかなー
 今後施設の動向を考える時に入所者に不安を与えない施設「庇を貸して母屋を取られる」を
と言うか、終の棲家を皆で英知を結集いたし悔いのない施設造りに期待するものである。

写真は合同慰霊祭の模様ですが、入所者20名余りで残りが職員他です。何か寂しい気持ちと、これが現実かと?複雑な気持ちになりました。今後も出来る限り慰霊祭には出席致したい。
posted by Moriyama Kazutaka at 18:26| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
慰霊祭は 貴園では 室内で行われているようですね。将来構想も 述べられたのでしょうか。

宮古では 屋外の施設ですが 最近は雨が降っても 濡れないようになりました。他からの出席者もありますが 基本的には 顔見知りばかりです。前には海、その手前は 戦争の時は 遺体を並べたところで、土葬して 最初の納骨堂に収めたそうです。その納骨堂から数えて 現在の納骨堂は トラバーチンのすばらしいもの。3代目だそうです。

私は7回出席したことになります(7年いましたので)。途中で変わったことといえば、水子の霊も 供養することでしょうか。

あまり将来構想などの話はありませんでした。

終わったら、食べ物、飲み物で、小宴を開きます。
Posted by Ichiro at 2005年11月14日 22:06
今晩は!森田です。
前川園長は何か自信を持っているようです。特に一部の入所者を使い??園の啓発活動を致しているみたいです。確かに慰霊祭で言われました。翌日園長に注意致しました。大袈裟かなー大島新聞に書かれていますね!
今後の和光園の方針としては、入所者を最後まで看取れるためには、医療と介護が可能な施設が最小減必要という考えから、その設備計画に取り組み始めたと述べ、物骨者の起伏に富んだ人生をしのぶと共に、園の現状を報告した。

私は最小減の意味は解かりますが?では何処までのレベルが最小減なのかと、首は傾げました。園長も何となく言っていますが?本音です。
厚生労動省は一極集中化の施設整備なら、予算を出すといっています。では職員の数の問題です。

例えば和光園の50周年史に瀧澤園長は職員100人は大体100床から149床の病院規模になると説明されいますが?未だ外来患者の入院制度は、本省は認めてない。とすると、入所者60名切るのは今年か来年で達する。数はそれ以下になる計算である。それに比例いたし、職員の数は賃金を含め120名余る数字である。現在は職員が
増えている割には、看護・介護に何処まで行なっているのか、解からないのが現状である。

今後の園長&副園長の最大の仕事です。入所者の終の棲家の整備にどう対処するのでしょう!

それから宮古&沖縄は亀甲墓で親族一同が集いご馳走をたべながら、祖先の供養は良いですね!こちらは、講堂で30分間形だけで、後納骨堂に焼香するだけで終わりです。時間的には一時間も掛らないです。寂しい限りです。

沖縄の習慣は大事ですから、残してもらいたいものです。一度宮古に行きませんか?カラオケ大会で、知人も増えました。どうですか??
Posted by 森田隆二 at 2005年11月15日 11:30
奄美は奄美のいい所 宮古は宮古のいい所がありましょう。

納骨堂の前で 楽しそうにお祭りをしている親類に声をかけました。お骨は もって帰っていいのですよ。

ところがその答えは 本人がここが一番楽しそうだったから 持って帰らないということでした。

そういう考えもあるのかと反省しましたが、このことを書いたら、凄く批判されました。まあ、そういうこともあるでしょう。

もっと自由に考えたら と 思います。
Posted by Ichiro at 2005年11月15日 12:28
そうですね!
奄美和光園は家族の絆があります。
現在納骨堂には、全骨2体と分骨19対です。
何故か林先生と光田先生の分骨もあります。

和光園では、林先生と光田先生の碑が立っています。文面にはらいは治るとか書いてありますが?

宮古にまで、光田先生の影は薄かったのでは。こちらには、大西先生が和光園の礎を作りました。

それから、先月の分骨は籍には入っていないが?分骨を3ヶ所に致したました。
ですから、奄美では、遺族が引き取り来ます。
熊本判決以来増えています。

ですから他の園と致したら遺骨は少ないです。
納骨堂がガラガラです。

まー良いことでしょう!遺骨なっても家族の元に
帰られない遺骨もある中で??
Posted by 森田隆二 at 2005年11月15日 15:37
 宮古では 光田フー(Who) といった感じです。(光田って誰かいな)
あまり勉強していないのかな。
菊池野にあたる雑誌もないし。
差別されるのは、隔離主義という考えもないわけではありませんが、内地と比べると、弱いですね。先島では、知られるのが困る人は、愛楽にいったり、宮古にいったり、台湾にいったり、といった感じでした。(戦前です)
 ということで、宮古にいながら、宮古出身の患者さんを知らない場合がありました。

 菊池では 宮崎先生は相変わらず 人気ないですね。元軍人は ハンセン病を軍人の病気として認めさせた宮崎先生を多とするべきではないかと思っています。
Posted by Ichiro at 2005年11月15日 21:09
追加です。

 宮古の人々をタイヘン悲しませて事件で、日本史的に重要な事件がありました。人頭税を納めて沖縄から宮古に帰る船が、台湾に漂着し、55名くらいの人々が人食い族に殺された事件です。日本政府は清に掛け合い、清は化外の民(治めていない人民)がしたので責任を負わないというので、日本は出兵して、たしか44個だったかの首を持ってきました。台湾併合の遠因となっています。

 首は九州を経て、那覇に運ばれ、そこで埋葬され、現在は護国神社に再埋葬されました。
 当時の台湾の心ある人々により、墓もつくられ御守りもされています。宮古の人々は、きわめて冷静に対処されていまして、私は感心しています。
Posted by Ichiro at 2005年11月16日 02:54
 上の追加は 宮古の人々の広い心を表しています。

 終戦後、日本の兵隊が平良港からヤマトへ帰る時、悲しむ女性がタクサンいて、兵隊に対する思いも否定的ではなかったのです。その理由は、おわかりと思います。

 兵隊は、痩せこけていました。そして、疥癬がいました。病気のある兵隊は、まず、熊本の陸軍病院に運ばれました。その記録は、私は偶然ですが、国立熊本病院30周年誌で発見しました。

 
Posted by Ichiro at 2005年11月16日 12:28
今晩は!今日検査入院から帰りました。
一泊です。「両下肢の浮腫の血管造影」でした。左足の弁が、悪くて逆流しているみたいです。軽いのでしばらくストッキング治療してみます。検査後直ぐに前川園長の説明がありました。しばらく様子を見て悪くなったら紹介状を書くみたいです。
話し違いますが、宮古&沖縄の自治会の役員はノンビリとは言葉のあやですが?宮里会長いつもノンビリ話をされ、怒る時はあるのかと?思います。沖縄も大体同じです。奄美もノンビリ致していて、対岸の火事と思って
いるのか?自園の将来が危ないのに、危機感がないです。
いつも園長と話をしています。それは園の方から
教えるべきだといいました。国は将来的には施設の一部を自治体に譲渡することがあっても、ハンセン病療養所は「廃止法」によって設置されており法を廃止したら出でいかなければならない、ということになる。私は(外山)としては、そこの医療をきちんとさせることが核心であり二十人になっても病院になっても病院としての維持は可能だ。一人でも可能というしかない。国立病院課課長の発言ですが?二十名がボダーラインですかね?
ハンセン病療養所としての運営は??前川園長時代に居住棟の集約化は手をつけるでしょう?後は副園長がバトンタッチすることでしょう!
前川園長は先を読むのが早いです。ちらともらしたが施設の一部を譲渡らしき言葉を私に話しました。
私としては、それは良いが、未だ不安分子がおるので、図面引く時には、十分噛み砕いて会員に説明は必要でしょうと言いました。
私は建築の仕事もしていたので、今回の夫婦者は全国一と言っていますが?
その私が近い内社会復帰いたします。多分22日付けですが?住まいの掃除等がまだで?それに家財道具他250万円全て使いました。これから請求書を出します。
未だ園長の証明書が来週になります。
園の事はしばらく蚊帳の外から、見てみます。自治会はないが、留守番はおります。相談があるときは電話するそうですが?退所者の立場で園長とは話せないでしょう!では・・
Posted by morita at 2005年11月17日 20:44
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