【上】
戦争と隔離生活 過酷な時代の二重苦 閉ざされた時代
戦後60年、二度と戦争の悲劇をくり返さないとの強い決意の下に、平和や一人ひとりの命の尊さを見つめてきたはずの私たちは、一方で「戦後復興」の闇に隠されるようにして、"人間性"を奪われた人々の存在に、十分に目を受け、共感し寄り添うことがなかった。社会から隔離され、誤った国策によって強化された差別や偏見の中を生きてきたハンセン病元患者たち。名瀬市の国立療養所・奄美和光園に暮らす人々の"生"を通して、人が「生きる」ことの一端を見つめる。
旧三方村の緑深き山に抱かれた和光園。穏やかな時間が流れる現在の園の姿から、園や入所者が下手過酷な歴史をしのぶことは難しい。
第二次世界大戦が激しさを増す1943(昭和18)年2月、地元・有屋集落を中心とした住民の激しい反対を経て、園舎(14棟・延359坪)が竣工した。44年3月に入所者19人で開園式が挙行されたが、戦争末期を迎えると、園にも機銃掃射や焼夷弾落下など直接的な戦火が及ぶようになる。入所者は防空ごうや疎開小屋で避難生活を送り、病棟には重症者とその付き添いや警備をする入所者など数人を残すのみとなった。
45年6月10日には、病棟見張り中の職員が機銃弾の直撃を受け、空襲による園内唯一の犠牲者が出ている。当時の入所者・Aさんは和光園の『創立三十周年誌』の中で、「機銃の弾は病棟の屋根を貫き、私の隠れていたベッドの足を斜に貫通して床下に抜けてありました。敵機の去った後、病棟は屋根に五カ所の大きな穴があき、窓ガラスや屋根瓦の破片で床は脚の踏み場もないほどでした」と空襲の激しさを伝えている。
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終戦、二・二宣言を経た1947(昭和22)年2月10日、琉球列島司令官名で「らい患者強制隔離告」(軍政府特別布告第十三号)が出され、同14日には奄美大島に対して強制収容命令が発せられた。発令直後、名瀬、龍郷、笠利などを皮切りに群島内各地からの強制収容が始まり、和光園の入所者数は当初の収容定数100床を大きく上回る165人に達した。
同年三月、与論、沖永良部、徳之島の患者とともに貨客船「金戸丸」に乗り和光園に収容されたOさんの目には、一面が水田だった当時の有屋集落の風景画焼きついている。集落と園の間で「患者輸送車は集落内を通らせない」との契約があり、患者たちは二キロに及ぶあぜ道を歩いて園を目指した。
たどり着いた園は、事務本館や倉庫、職員寮まですべての建物が患者の居住棟として使われていた。何の受け入れ準備もなく、集めて押し込んだだけ。隔離のための収容所だったとはっきり言える」とOさんは話す。
特別な設備もない居住棟の土間で外科治療が行われ、破れた板戸の向こうから、亡くなった患者の解剖内容を説明する医師の声が聞こえてくる。患者の遺体は入所者らが「露天焼き」(火葬)にする―。それが「療養所」の実態だった。
入所者らは炊事や農作業に加え、燃料(まき)調達、清掃、風呂焚きなど生活全般を自らまかない、看護師代りとなって注射器の消毒やカルテ記入なども担った。47年に入所したEさんは「看護師数人と専門外の医師が一人いただけ。大楓子油注射(当時の治療薬)もなく、ハンセン病に関係ない皮下注射を打つ慰め的な治療しかなかった」と当時の医療の劣悪さを指摘する。
現在のような療養慰安金の給付はなく、入所者の中には自由に使える収入を得るため、「労務外出」と呼ばれた建設作業などに従事し園外に通う人もいた。こうした作業で身体を酷使したことが、新薬プロミンの導入でハンセン病が完治するようになった後も残る後遺症を生んだ。
47年9月には沖縄愛楽園より百人余りが引き揚げ入所し、入所者は三百六十人を超えた。この頃、食糧事情の厳しさから入所者の逃走帰省が頻発し、軍政府は園出入り口に巡査駐在所を置き、闘争防止のための有刺鉄線を張り巡らした。このことがハンセン病に対する「恐怖をあおり、啓蒙は逆効果を生じた」と創立二十周年記念誌『奄美和光園の歩み』は指摘している。療養環境、治療技術、社会の意識、あらゆる面で入所者が過酷な状況に置かれた時代だった。
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1944(昭和24)年4月の入所者自治会の発足、50年2月の患者全員へのプロミン使用開始、同12月の治療棟完成などを経て、和光園が療養所としての形態を整えていく中、53年8月にらい予防法が改正され、強制隔離が維持・強化されていく。同年12月25日、奄美群島が日本復帰。その後、和光園の管轄が旧厚生省に移り、「本土なみ」を目指し施設整備が進められるが、療養所が真に入所者の社会復帰を支える場となることはなかった。入所者たちは療養所という閉ざされた世界でそれぞれの戦後、復帰後の人生を刻んでいく。
【中】
根強い偏見の中 「生」を支えたもの 異なる人生の歩み
「国民」「国益」「公共」…。"大きな"言葉は時に「命」を"顔の見えない"ものに変えてしまう。「入所者」もその一つだろう。社会からの隔離政策、親兄弟との絶縁、いわれなき根強い偏見・差別―。共通の過酷な体験を心に刻むハンセン病国立療養所の入所者たちだが、その「生」を支えたものは多様であり、一人ひとり異なる人生の歩みを映し出す。
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入所者67人、平均年齢79.0歳(8月8日現在)。戦後60年、奄美和光園の入所者のほとんどが戦争の「記憶」を持つ。
現在は奄美出身の夫と和光園で暮らすNさんは、隔離収容先の沖縄愛楽園で戦時下を過ごした。当時、小学校低学年。「両手をお姉さんたちに引っ張られ、はしゃぎながら防空ごうに入った。兵隊さんだった人の歌に合わせて踊って『敵に見つかる!』と怒られたり。楽しくやる性格だから、防空ごう生活も苦にならなかった」と話す。
戦争体験も笑い飛ばす。その天性がNさんの「ハンセン病患者」としての人生を支えてきた。
愛楽園時代、園の外を歩くと石を投げられたり、唾を吐かれることもあった。園内結婚後、姑からは気に入らないことがあると「らい病の娘はいらん!」と吐き捨てられた。
「嫌われて当たり前と、全部笑い話に変えてきた」「夜眠るときは涙が出るけど、翌朝目覚めたら、キャッキャッと笑うの」
持ち前のプラス志向」で自らを支えてきたNさんだが、らい予防法が廃止(1996年)、熊本地裁判決(2001年)で国の隔離政策の誤りが認められた今も、心からの笑顔で暮らせる日々は訪れていない。
判決後、ハンセン病元患者に国家賠償金が支払われた。それを機に「大金持ち」などと元患者たちを揶揄(やゆ)する事態が起きている。好んで賠償金を手にする人生を歩んだ人はいない。だが「成り行きを知ろうとせず、賠償金のことばかりを指摘する」社会の眼が存在する。「また偏見の時代に戻るのでは」。笑い飛ばせない恐怖感が、Nさんにはある。
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「谷底に突き落とされたような感じ。とてもショックだった」。"男勝り"の活発な女性だったIさんの人生が一転したのは、若者盛り二十八歳のときだった。
手や足に外傷があったわけではなく「顔に吹き出物が出た」程度、検査的な気持ちで和光園を訪れたところ、即日入所となった。
「人生これからと思っていた二十代。昼間から一升瓶を担いで園内を歩き、どうにでもなれと、やけ酒を飲んだ」
園で出会った先輩に諭され、徐々に療養所で生きる決心を固めていったIさんだが、常に頭から離れなかったのが親兄弟、家族の存在だった。
「自分さえ病気しなければ、顔を上げて堂々と暮らせるのに。『申し訳ない』以外の言葉はない」
和光園入所後、Iさんは園内で出会った夫と結婚、二女一男をもうけた。園内で子を産めば名瀬市内の乳児院「天使園」へ預けられ、年に数回の面会でも親子が触れ合うことは許されない時代だった。自分の手で抱き育てられない無念さ、「何で産んだのか」と後悔することもあった。それでも「生きて子どもたちを見守らねば」という親としての責任感がIさんの人生を支えた。
現在は六人の孫に恵まれ、「孫たちと一緒に暮らしたい」との夢がある。娘婿や孫たちも心待ちにしてくれているが、ケガや病気のことを考えると、身近に医療がある園を離れることへの不安がある。園外の病院に通うのは引け目を感じる。
退所者が保健診療で再入院できる制度の導入が実現すれば、Iさんは社会復帰に踏み切る覚悟でいる。「後ろは振り返らない性格。前を見てまっしぐらに進むだけ。今まで辛い思いをした分、これからは楽しく生きねば」。
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強制収容以来、六十年近い歳月を和光園で暮らしてきたOさんの場合、園で出会った「死後も神とともに永遠に生きる」というカトリックの教えが心の頼りになってきた。いくら長生きしても療養所生活は百年足らず。永遠に比べればちっぽけなものだよ」。今は「これで良かったのかなと思う」と穏やかに語ることができる。
兄弟で紬荒城を持つ夢に燃えていた矢先に発症、二十年前に入所したYさんは「人として誰とも対等でありたい」との思いが自らを鼓舞してきた。タクシーなど各種運転免許を取得し、いくつもの会社を渡り歩いた。「仕事をし税金を収め、堂々と生きたい」。その思いは賠償金が降りた今も変わらない。
入所者一人ひとりが療養所生活という限られた環境の中で、それぞれに自分らしい生き方を積み上げてきた。入所者数の減少、高齢化が進み、和光園の将来構想が緊急の課題として叫ばれている。人誰しもがそうであるように、「入所者」にも多様な将来がある。そのことを彼・彼女らの生き様が伝えている。
【下】
社会復帰阻む見えない壁 変革の時
和光園は今、入所者の減少と高齢化により変革の時を迎えている。
名瀬市は2003年に「奄美和光園の将来構想検討委員会」を設置。「生命力」をどのように増進維持していくかを長寿につながるポイントととらえ、長寿の島・奄美群島において「生命力」「生命増進力」およびそのメカニズムの研究を主眼に置いた「国立長寿検証センター」を、和光園の既存施設を利用して併設することを厚生労働省に要望。同省から明確な回答がないものの和光園・前川嘉洋園長は「園の将来はあくまでも入所者の医療・介護の充実が望ましい。国立療養所は縮小・削減の方向性にあり併設案は難しいのではないか」と語る。
和光園では独自に五年、十年後を見越した施設設備案を入所者に提示。入所者の平均年齢が八十歳を越え、園内に散らばった現状の一般舎では充実した医療・介護が難しいと判断し、住宅を一カ所に集約した老人ホーム的な居住棟案を示した。
入所者の受け止め方は三者三様だが、Uさんは重い言葉を残した。「将来構想が何を意味しているのかわからないし、十年後の自分がどうなっているのか想像もつかない。今は一日一日を生きるので精いっぱい。ただ、どういう体制になろうとも、ハンセン病患者が最後の一人になるまでしっかりとした医療をしてもらいたい」。
◆
2001年5月。「らい予防法」に基づく国の隔離政策を断罪した熊本地裁裁判が確定。翌6月には「ハンセン病補償法」が成立し、ハンセン病元患者は社会復帰のスタートラインに立った。
「社会に出てもハンセン病は嫌われる。偏見の目で見られるくらいなら園の中で平凡に暮らしたい」。Nさんはあきらめたように話す。Nさんのようん、社会復帰を果たしたくても差別や偏見の目を恐れ、第一歩を踏み出せずにいる人も少なくない。多くの元患者が高齢になり「園で一生を終えたい」と望む声も聞こえるが、療養所しか選択の余地がないというのも現実である。
「ハンセン病補償法」はハンセン病患者、元患者の癒しがたい心身の傷痕の回復、精神的苦痛の慰謝とともに、彼らの名誉の回復と福祉の増進を国の責務とした。これに伴い、療養所入所者を対象とした特別年金支給、福祉政策などの恒久対策が取られた。また療養所退所者に対しても補償金の支給、退所後も療養所での医療が無償で受けられる措置もできた。
医療・福祉面で元患者を後押ししたものの、長期の隔離政策、園の周囲を取り巻いた有刺鉄線から想像される誤ったイメージを払しょくするのは難しく、社会の理解はなかなか進まない。一度社会復帰を果たしたものの、耐えがたい差別や偏見に遭い、再び入所した人。差別を恐れ、本名を名乗れない人。自分の存在をケスようにして生きている人々の姿から、彼らの社会復帰を阻む見えない壁はいまだに厚いのが見て取れる。国家賠償金が支払われたことによって、元患者が中傷されるなど、社会は新たな差別を生み出す危うさを秘めている。
幸い和光園では、全国の他の療養所と異なり、元患者と家族や親戚とのつながりが強く、和光園への出入りも頻繁にあった。1983年からは皮膚科を中心とした一般外来診療を実施。診療に訪れる地域住民も多く、地域に開かれた園という印象も強い。
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「ハンセン病訴訟は決着したが、ハンセン病問題が終わったわけではない」…。国の隔離政策を断罪した元患者ら原告弁護団はこう訴えた。国が誤った政策を謝罪した今、黒川温泉(熊本)に宿泊しようとした元患者らが宿泊を拒否されるように、元患者に対する人権侵害が繰り返されているという現実を一人ひとりが直視し、人権意識を強く持つ努力を惜しんではならない。基本的人権を尊重する社会を築くために、私たちに科せられた課題は多い。
(この連載は山中僚、池田亮が担当しました)
平成17年8月15日 大島新聞